2012年05月04日
プリンスの経営破綻で思いだしたこと
このGWで一番ビックリしたのは、私的には、プリンスの経営破綻で、過去の記憶が一気に蘇りました。
その昔、GSSパンサーテニスクラブ(というか学習院大学)卒業後の就職活動は、GSSパンサーを軌道に乗せること、そして、学習院大学テニス同好会連盟の発足と第1回院内テニス同好会大会の開催に関わり、その全てが終了してからでした。
(正直、周りは内定で、かなり遅れての就職活動でした。)
いろいろな業界の企業研究を開始しましたが、もう気持ちは、テニス業界、それもラケットを中心に、テニス用品を総合的に、企画、開発、製造、販売するテニス総合メーカーに。
必然的に、国内メーカーとなりました。
海外ラケット、例えば、ヘッドもありましたが、製造までは海外で、国内では、大沢商会(こちらも確か、後に経営破綻?)が販売だけを扱っていました。
当時、まだウッドが主流で、国内シェアは、オールマンを筆頭にしたカワサキラケットが1位、次がウィニングショットを筆頭にしたフタバヤだったかと思います。
ヨネックスは、当時、アルミ製ラケットという独自路線でしたが、この2社には、及ばず。
ミズノは、総合スポーツメーカーでテニスへの注力は?と感じていました。
ヤマハもテニスラケットを製造、販売していましたが、やはり、主体はテニス以外で、確か後にテニスラケットから撤退したかと?思います。
それから数年の間に、業界トップのカワサキラケット、2位のフタバヤが経営破綻するという、考えられないことが起こりました。
いろいろな原因がありますが、私が感じたのは、プリンスが始めたデカラケの影響です。
あれで、テニスラケットの流れが180度変わりました。
ウッドかつレギュラーサイズ(これもデカラケがなければ出てこない表現ですが)のラケットから、金属かつデカラケまたはミッドサイズという流れです。
これに、うまく乗れたのは、海外ではプリンス、国内ではヨネックスで、駄目だったのが、かつての1位、2位企業だったのではと思います。
もし、デカラケという発想が出てこなかったり、テニスルールで、ラケットの素材(木に限る)とサイズ(レギュラーサイズ)が限定されていたら、もしかして、今も、カワサキラケットやフタバヤが主流だったかもしれません。
そういう思いの中で、プリンスが経営破綻したと聞き、かつてデカラケで業界を一変させたメーカーが、今度は自分が破綻したのかという何とも言えない思いです。
確かに、私がテニスが出来なかった間に、バボラという聞いたことがなかったメーカーが主流になっていたりと、テニス業界もさらに変化があり、プリンスはその競争の中で、厳しかったのかなと。
あとは、カワサキもフタバヤもテニスラケットとしての歴史あるブランド名は、残念ながら無くなってしましたが(レジャー向けではまだあるような噂は聞きましたが)、今回のプリンスでは支援企業が出てきて、再生し、ブランド名が残ることを願っています。
その昔、GSSパンサーテニスクラブ(というか学習院大学)卒業後の就職活動は、GSSパンサーを軌道に乗せること、そして、学習院大学テニス同好会連盟の発足と第1回院内テニス同好会大会の開催に関わり、その全てが終了してからでした。
(正直、周りは内定で、かなり遅れての就職活動でした。)
いろいろな業界の企業研究を開始しましたが、もう気持ちは、テニス業界、それもラケットを中心に、テニス用品を総合的に、企画、開発、製造、販売するテニス総合メーカーに。
必然的に、国内メーカーとなりました。
海外ラケット、例えば、ヘッドもありましたが、製造までは海外で、国内では、大沢商会(こちらも確か、後に経営破綻?)が販売だけを扱っていました。
当時、まだウッドが主流で、国内シェアは、オールマンを筆頭にしたカワサキラケットが1位、次がウィニングショットを筆頭にしたフタバヤだったかと思います。
ヨネックスは、当時、アルミ製ラケットという独自路線でしたが、この2社には、及ばず。
ミズノは、総合スポーツメーカーでテニスへの注力は?と感じていました。
ヤマハもテニスラケットを製造、販売していましたが、やはり、主体はテニス以外で、確か後にテニスラケットから撤退したかと?思います。
それから数年の間に、業界トップのカワサキラケット、2位のフタバヤが経営破綻するという、考えられないことが起こりました。
いろいろな原因がありますが、私が感じたのは、プリンスが始めたデカラケの影響です。
あれで、テニスラケットの流れが180度変わりました。
ウッドかつレギュラーサイズ(これもデカラケがなければ出てこない表現ですが)のラケットから、金属かつデカラケまたはミッドサイズという流れです。
これに、うまく乗れたのは、海外ではプリンス、国内ではヨネックスで、駄目だったのが、かつての1位、2位企業だったのではと思います。
もし、デカラケという発想が出てこなかったり、テニスルールで、ラケットの素材(木に限る)とサイズ(レギュラーサイズ)が限定されていたら、もしかして、今も、カワサキラケットやフタバヤが主流だったかもしれません。
そういう思いの中で、プリンスが経営破綻したと聞き、かつてデカラケで業界を一変させたメーカーが、今度は自分が破綻したのかという何とも言えない思いです。
確かに、私がテニスが出来なかった間に、バボラという聞いたことがなかったメーカーが主流になっていたりと、テニス業界もさらに変化があり、プリンスはその競争の中で、厳しかったのかなと。
あとは、カワサキもフタバヤもテニスラケットとしての歴史あるブランド名は、残念ながら無くなってしましたが(レジャー向けではまだあるような噂は聞きましたが)、今回のプリンスでは支援企業が出てきて、再生し、ブランド名が残ることを願っています。
2011年06月18日
指導者にレッスン
またまた過去に戻りまして、カワサキラケット時代の話です。
私は選手枠ではなく、一般枠で入社し、広報部に所属しながらも、たまに宣伝活動の一環として、数々のテニススクールのお手伝いをしたことは、以前にも記載しました。
その中で、いままでのブログでは、楽しいかったことを多く書きましたが、冷や汗をかいたことがあります。
カワサキラケットには、新卒入社の2年間しか在籍していませんでしたので、スクールにもプロ選手や先輩社員のアシスタントコーチとして主に参加していました。
たまに、社員は私1人というときは、インカレクラス、同好会トップクラスの学生と一緒に運営しました。
冷や汗をかいたのは、ある地区からコーチを1人派遣して欲しいという依頼が会社にあり、対象はその地区のテクスクラブ、サークルのテニス指導員だというのです。
ちょうど、依頼された日は、プロ選手も、先輩社員もすでに予定が入っていて、空いていたのは、新人の私だけでした。
当時の私のテニスレベルは、会社で先輩等と練習はしていましたが、GSSパンサー時代に多少毛がはえたレベルでした。
当日、雨で中止にならないかと祈りながら行きましたが、運悪く、絶好のテニス日より。
レッスンを始める前に、参加者の練習を見ていましたが、一番下のレベルの人が私と同レベルと、やはり指導者クラスだなと、内心、心配、不安だらけでした。
そこで、思いついたのは、よくレッスンを手伝ってもらった、同好会優勝経験者が、以前、左手にラケットを持たせると、初心者の気持ちになると言っていたこと。
あっ、これだと思い、その方法を利用しよう、今日は、参加者のレベルアップではなく、指導力を上げるのが目的のレッスンだと、意を決しました。
レッスンの最初に、「今日は、皆さんに、初心者に戻ってもらいます。そのために、今日は利き腕でない方の手で、ラケットを使ってください。」と言いました。
指導者レッスンだから、おかしいやり方ではないのです。
始まると、全員、利き腕ではありませんから、初心者レベルにもどります。
ラリーさえ出来ません。
その人達に、どう球出しして、どうアドバイスしていけば良いかということで、1日のレッスンを無事終了しました。
しかし、確か、日曜日でしたが、帰りはドット疲れが出た、休日出勤レッスンでした。
翌日、心配した先輩社員に報告し、うまく乗り切ったとほめられましたのが、幸いでした。
私は選手枠ではなく、一般枠で入社し、広報部に所属しながらも、たまに宣伝活動の一環として、数々のテニススクールのお手伝いをしたことは、以前にも記載しました。
その中で、いままでのブログでは、楽しいかったことを多く書きましたが、冷や汗をかいたことがあります。
カワサキラケットには、新卒入社の2年間しか在籍していませんでしたので、スクールにもプロ選手や先輩社員のアシスタントコーチとして主に参加していました。
たまに、社員は私1人というときは、インカレクラス、同好会トップクラスの学生と一緒に運営しました。
冷や汗をかいたのは、ある地区からコーチを1人派遣して欲しいという依頼が会社にあり、対象はその地区のテクスクラブ、サークルのテニス指導員だというのです。
ちょうど、依頼された日は、プロ選手も、先輩社員もすでに予定が入っていて、空いていたのは、新人の私だけでした。
当時の私のテニスレベルは、会社で先輩等と練習はしていましたが、GSSパンサー時代に多少毛がはえたレベルでした。
当日、雨で中止にならないかと祈りながら行きましたが、運悪く、絶好のテニス日より。
レッスンを始める前に、参加者の練習を見ていましたが、一番下のレベルの人が私と同レベルと、やはり指導者クラスだなと、内心、心配、不安だらけでした。
そこで、思いついたのは、よくレッスンを手伝ってもらった、同好会優勝経験者が、以前、左手にラケットを持たせると、初心者の気持ちになると言っていたこと。
あっ、これだと思い、その方法を利用しよう、今日は、参加者のレベルアップではなく、指導力を上げるのが目的のレッスンだと、意を決しました。
レッスンの最初に、「今日は、皆さんに、初心者に戻ってもらいます。そのために、今日は利き腕でない方の手で、ラケットを使ってください。」と言いました。
指導者レッスンだから、おかしいやり方ではないのです。
始まると、全員、利き腕ではありませんから、初心者レベルにもどります。
ラリーさえ出来ません。
その人達に、どう球出しして、どうアドバイスしていけば良いかということで、1日のレッスンを無事終了しました。
しかし、確か、日曜日でしたが、帰りはドット疲れが出た、休日出勤レッスンでした。
翌日、心配した先輩社員に報告し、うまく乗り切ったとほめられましたのが、幸いでした。
2011年03月27日
奇遇な再会と残念な話
少し前になりますが、今のテニススクールのコーチが、私がGSSパンサー(というか学習院大学)を卒業後、新卒として、勤めていたテニスメーカーに勤めていたことが、偶然わかりました。
勤務時期が重なっていたのは、半年位ですが、同じビル内で働いていたのは間違いないことでした。
ただ、私は広報部で、その方は別の部署で、フロアーが違っていたため、一緒に仕事をした記憶はないのですが、何となく、どこかで会ったことがあるようなとお互いに思っていたようです。(と話しました。)
私は、テニスメーカー退職後は、職業としてのテニス業界を離れましたが、その方は、その後もテニス業界にいて、現在は、テニススクールのコーチで、私はその生徒でもあるという奇遇な再会でした。
昔話をしていたとき、残念な話も聞きました。
私がテニスメーカーに入社し、社会人としての初めての上司の方がいました。
その方からは、社会人として、そしてテニスメーカーの社員として、どうあるべきか等指導を受け、また私の結婚式にも出席していただきました。(式場に、テニス様式一式を持参し、結婚式終了後、確か仕事で軽井沢に行くと言っていたのを覚えています。)
テニスも上手く、県大会のダブルスで優勝か準優勝の経験もあり、シングルスを何回も挑戦しましたが、一度も勝てず、一度だけ、4-4までいくも、最後に押し切られ6-4が最高でした。
その方が亡くなられたということを、再会したコーチから聞きました。
昔のことを思い出すととともに、大変残念な気持ちになりました。
13年ぶりにテニスに復帰し、同県内なので、もしかしたら、またどこかのテニスコートか大会でお会いすることがあるかもと思っていました。
本当に残念です。
勤務時期が重なっていたのは、半年位ですが、同じビル内で働いていたのは間違いないことでした。
ただ、私は広報部で、その方は別の部署で、フロアーが違っていたため、一緒に仕事をした記憶はないのですが、何となく、どこかで会ったことがあるようなとお互いに思っていたようです。(と話しました。)
私は、テニスメーカー退職後は、職業としてのテニス業界を離れましたが、その方は、その後もテニス業界にいて、現在は、テニススクールのコーチで、私はその生徒でもあるという奇遇な再会でした。
昔話をしていたとき、残念な話も聞きました。
私がテニスメーカーに入社し、社会人としての初めての上司の方がいました。
その方からは、社会人として、そしてテニスメーカーの社員として、どうあるべきか等指導を受け、また私の結婚式にも出席していただきました。(式場に、テニス様式一式を持参し、結婚式終了後、確か仕事で軽井沢に行くと言っていたのを覚えています。)
テニスも上手く、県大会のダブルスで優勝か準優勝の経験もあり、シングルスを何回も挑戦しましたが、一度も勝てず、一度だけ、4-4までいくも、最後に押し切られ6-4が最高でした。
その方が亡くなられたということを、再会したコーチから聞きました。
昔のことを思い出すととともに、大変残念な気持ちになりました。
13年ぶりにテニスに復帰し、同県内なので、もしかしたら、またどこかのテニスコートか大会でお会いすることがあるかもと思っていました。
本当に残念です。
2010年10月11日
ヨネックス
昨日の続きで、現在の話です。
昨日は、テニスコートでヨネックスの展示会が行われ、ヨネックスから若手~中堅社員と見える方が2名来ていました。
私のカワサキラケット時代を思い出しましたが、こういうイベントは当然、土日が多く、少ない社員で全国のイベントをカバーしますから、かなり土日出勤が多いんですね。
まあ、制度的には、平日に代休が取れることにはなっていましたが、平日は平日でまた仕事があったりで。
でも、当時の噂では、ヨネックスはテニス業界では、労働条件が良い方だったので、そういうことはないのかもしれませんが。カワサキラケットからヨネックスへ転職した人もいましたし。
ところで、昨日は、ヨネックスの新商品、「E ZONE(だったかな?)」の展示、試打会でした。衝撃が少ないというふれこみでしたが、例の足裏筋膜炎の関係で、試打はしませんでした。
しかし、ヨネックスは20年以上も、例の四角形にフレーム形状は変わりませんね。
思わず、1984年購入の名機「R 22」を探して、写真をとってしまいました。

フレーム形状は、「E ZONE」も「R 22」も、ほぼ同様ですよね。
さて、今日は、例の足底筋膜炎をかかえながらも、何とかテニスができました。昨日からのシップでかなり痛みが引き、昨日は不調でしたが、今日はなぜか好調な部類。なにが幸いするかわからないですね。
昨日は、テニスコートでヨネックスの展示会が行われ、ヨネックスから若手~中堅社員と見える方が2名来ていました。
私のカワサキラケット時代を思い出しましたが、こういうイベントは当然、土日が多く、少ない社員で全国のイベントをカバーしますから、かなり土日出勤が多いんですね。
まあ、制度的には、平日に代休が取れることにはなっていましたが、平日は平日でまた仕事があったりで。
でも、当時の噂では、ヨネックスはテニス業界では、労働条件が良い方だったので、そういうことはないのかもしれませんが。カワサキラケットからヨネックスへ転職した人もいましたし。
ところで、昨日は、ヨネックスの新商品、「E ZONE(だったかな?)」の展示、試打会でした。衝撃が少ないというふれこみでしたが、例の足裏筋膜炎の関係で、試打はしませんでした。
しかし、ヨネックスは20年以上も、例の四角形にフレーム形状は変わりませんね。
思わず、1984年購入の名機「R 22」を探して、写真をとってしまいました。

フレーム形状は、「E ZONE」も「R 22」も、ほぼ同様ですよね。
さて、今日は、例の足底筋膜炎をかかえながらも、何とかテニスができました。昨日からのシップでかなり痛みが引き、昨日は不調でしたが、今日はなぜか好調な部類。なにが幸いするかわからないですね。
2010年08月12日
走馬灯(テニスメーカー2)
カワサキラケットでの大きな思い出のひとつに、これも今まで名前を記載してこなかった大テニススクールがあります。
大とつけただけあり、私の経験上これ以上大規模なテニススクールはなかったと思います。
名前は、ノンノテニススクールです。ほぼ全国各地にトッププロ(前のブログで記載したプロです)をメインコーチに、大学同好会トップ(関東大学同好会選手権シングルス優勝者をはじめ、同好会としてはそうそうたるメンバーです)をアシスタントコーチに行われました。
そのおかげで、初めて飛行機に乗りましたし、個人的に行った場所を含めて、このスクールのおかげで全都道府県に行くことができました。
もちろん、プロや同好会メンバーと久しくなれましたし、自分自身のテニスの向上にもかなり役立ちました。正直、このそうそうたるメンバーの中では、当時のテニスレベルは私が一番下でした。(膝を故障する前の30代半ばの最高潮時であれば、同好会メンバーにはどうかな?)
プロ同様、同好会メンバーとも縁が切れてしまったのが、大変残念です。でも、GSSパンサーや学習院の同好会メンバーとは、その後もつながっていました。また、同好会トップでプロテニスの世界に飛び込んだ人もいて、テレビで何回を顔を見たこともあります。
大とつけただけあり、私の経験上これ以上大規模なテニススクールはなかったと思います。
名前は、ノンノテニススクールです。ほぼ全国各地にトッププロ(前のブログで記載したプロです)をメインコーチに、大学同好会トップ(関東大学同好会選手権シングルス優勝者をはじめ、同好会としてはそうそうたるメンバーです)をアシスタントコーチに行われました。
そのおかげで、初めて飛行機に乗りましたし、個人的に行った場所を含めて、このスクールのおかげで全都道府県に行くことができました。
もちろん、プロや同好会メンバーと久しくなれましたし、自分自身のテニスの向上にもかなり役立ちました。正直、このそうそうたるメンバーの中では、当時のテニスレベルは私が一番下でした。(膝を故障する前の30代半ばの最高潮時であれば、同好会メンバーにはどうかな?)
プロ同様、同好会メンバーとも縁が切れてしまったのが、大変残念です。でも、GSSパンサーや学習院の同好会メンバーとは、その後もつながっていました。また、同好会トップでプロテニスの世界に飛び込んだ人もいて、テレビで何回を顔を見たこともあります。
2010年08月11日
走馬灯(テニスメーカー)
GSSパンサーの次に思い出として残るのは、時系列からも、新卒で入社したテニスメーカーですね。
今までのブログで、GSSパンサー、サウスクエア、サングリーン三山と実名で記載していましたが、テニスメーカーは社名を記載していませんでした。
特に隠していたわけではないのですが、何となく最初に記載しないで、ずるずるときてしまいました。
社名はカワサキラケットです。今は存在していませんが、就職先として選んだ当時は、テニスラケットのシェア日本一の企業でした。(残念ながら私の退社数年後になくなってしまいましたが)
そこでの思い出も沢山ありますが、あまり普通の方が経験できないこととして、様々なプロテニスプレイヤーの方と接しられたことでしょうか。
カワサキラケット契約プロとしては、当時のトーナメントプロの神和住プロ、福井プロ、テーィチングプロの渡辺プロ、またその繋がり等で、トーナメントプロでは田村プロ、ティーチングプロでは中島プロ等、多くのプロと一緒に仕事(テニス)をさせていただきました。
私の人生の後悔のひとつに、カワサキラケットを退社してテニス以外の企業に就職し、それまでのテニスの人脈を断ってしまったことがあります。本当に残念です。
あっ、あと世界NO1プレイヤーと同じコートに立つは、ボルグ選手です。彼のトップスピンのバンンドが、頭の上を超えていたので、ビックリ、ただ同じコートに立っているだけでしたが。
今までのブログで、GSSパンサー、サウスクエア、サングリーン三山と実名で記載していましたが、テニスメーカーは社名を記載していませんでした。
特に隠していたわけではないのですが、何となく最初に記載しないで、ずるずるときてしまいました。
社名はカワサキラケットです。今は存在していませんが、就職先として選んだ当時は、テニスラケットのシェア日本一の企業でした。(残念ながら私の退社数年後になくなってしまいましたが)
そこでの思い出も沢山ありますが、あまり普通の方が経験できないこととして、様々なプロテニスプレイヤーの方と接しられたことでしょうか。
カワサキラケット契約プロとしては、当時のトーナメントプロの神和住プロ、福井プロ、テーィチングプロの渡辺プロ、またその繋がり等で、トーナメントプロでは田村プロ、ティーチングプロでは中島プロ等、多くのプロと一緒に仕事(テニス)をさせていただきました。
私の人生の後悔のひとつに、カワサキラケットを退社してテニス以外の企業に就職し、それまでのテニスの人脈を断ってしまったことがあります。本当に残念です。
あっ、あと世界NO1プレイヤーと同じコートに立つは、ボルグ選手です。彼のトップスピンのバンンドが、頭の上を超えていたので、ビックリ、ただ同じコートに立っているだけでしたが。
2010年01月26日
テニスメーカー退職を決意
入社当時は、シェア日本一であった会社もデカラケの登場で、その将来性に疑問と不安が強くでてきました。このまま今の会社で働いていけるのか、会社は存続するのか等々悩みに悩みましたが、最後の決断は、もうひとつの悩みであった趣味と実益の一致ゆえの悩みが、退職するという背中を押しました。ちょうど、入社して丸2年がたったときです。同期、先輩からは当然引き留められ、また、結婚を半年後に控え、親、婚約者(今の女房)からも怒られましたが、私の決意は変わらず、退職することとなりました。
*私の勤務していたテニスメーカーは、私の退職の約2年後に倒産となりました。
*私の勤務していたテニスメーカーは、私の退職の約2年後に倒産となりました。
2010年01月23日
デカラケがテニス業界を一変させる!
約30年前、最初は、邪道と言われていたデカラケが、またたく間にテニス界に広まり、特に、日本で行われた試合で、キング夫人とナブワチロワのダブルスペアが、Y社のRシリーズを使用した時は、衝撃でした(実際、試合会場まで行き目の当たりにしたので)。テニス業界は、デカラケを中心とする企業と、従来のラケットを中心とする企業に分かれましたが、瞬く間に、デカラケを中心とする企業が業界のシェアを一変させることになりました。私の勤めていた企業は、従来の方でしたので、その荒波にさらされ、自分としても、その将来に疑問と不安を強く感じるようになりました。
2010年01月11日
デカラケの衝撃
ラケットといえば、30年前はウッドのレギュラーサイズ(あたり前なので、こういう言葉も使いませんでしたが)で、その他、アルミ製(アッシュが使用)やスチール製(コナーズが使用)がありましたが、やはりフェイスサイズはレギュラーサイズでした。そういう状況下で、テニスメーカーに入社1年が経った頃、デカラケが登場(確か最初はプリンス製)しました。出たての頃は、ボレーだけにはいいが、邪道という評価でした。ビールでいうと、ラガービールがシェアを独占している時代に、ドライビールが登場した状況で、時期的にも、ほぼ同時期でした。このデカラケの登場が、おって私の人生も大きく変えることになりました。
2010年01月03日
テニススクール(合宿)応援参加の続編
山中湖でのテニススクール(合宿)に大勢で参加してくれた千葉県の某県立女子高校(確か1校しかないので、千葉女子高です)のテニス部員から、帰り際、ぜひ高校に来て教えて欲しいと言われました。会社員ですから、一応会社の了解をとり(広報活動の一環ということで、このあたりは理解がある会社でした)、いざ単身女子高へ。1人では、学校に入りにくいので、学校の近くまで、迎えに来てもらい、校門は無事通過。次にテニス部の顧問の先生(今の私くらいの年齢の男性教師)へのご挨拶、ここは会社の名刺が大きな効果があり、快く迎えていただきました。平日の授業後だったので、2時間位、レッスンというか、楽しく一緒にテニスをしたという感覚でした。その後は、一緒にテニスをする機会はなかったのですが、数年後に劇的な再会をすることになりました。(それは、またの機会に。)
2010年01月02日
テニス営業の厳しさ
営業に異動後、担当地域のテニスショップを1日数件まわり、自社製品の注文をとるのが主な仕事になりました。ラケットからウエア、ボール、小物等々自社製品には多くの種類があり、当然、各メーカーの得意分野、不得意分野があります。私の勤務していた会社は、総合テニス用品メーカーでしたが、ラケットが得意分野で、次がウエア、しかしボール、小物はほとんど知名度がない状態でした。それでも、注文金額を上げるためには、多くを売り込まなくてはいけません。逆にテニスショップは、売れ筋製品だけを注文しようとします。ある例では、ラケットで一番の売れ筋製品を数十本まとめて、短期間に納品するならという条件つきで、他の製品も注文するというものでした。ただ、以前も記載しましたが、在庫管理が完璧でないため、短期間で多量の売れ筋ラケットを納品できるか返事ができませんでした。納品期間を伸ばす、数量を分割する等の交渉をしましたが、譲ってもらえず、多量の受注を目前に、結局、そのショップからは注文をとれず、あきらめて帰社しました。

2009年12月31日
テニススクール(合宿)に応援参加
自社開催のテニススクール(軽井沢や山中湖等で行う合宿形式のテニススクール)は、ハイシーズンになるとコーチが足りず、応援に借り出されることがありました。想い出の一つに、山中湖で、自社契約プロと参加したときのことです。通常、こういうイベントは、お金もかかるので、社会人の方がほとんどなのですが、このときは、千葉県の某県立女子高校のテニス部の部員が何人も参加していました。皆、そこそこ打てる高校生なので、レッスンしているコーチも結構楽しめるスクールでした。朝は早く起きて、皆で散歩に出たり(その時の写真が手元にあったので覚えています。)と、本当に楽しいスクールでした。(こういう仕事ばかりだと良いのですが。)

2009年12月29日
ラケットの在庫がわからない?
大学テニス同好会広報担当から、営業に人事異動となり、担当地域のテニスショップをまわり自社製品の受注活動を行うことになったのですが。例えば、ラケットは十種類位あり、さらにその中で、グリップサイズ、色とかに分類すると何十種類もあります。せっかくテニスショップで、受注し、いざ会社に問い合わせても、その在庫がわからないのです。今では、ITの在庫管理システムでわかるでしょうが、30年前は、確かな在庫データがわからない状態でした。特に売れ筋のラケットを多数、短期間で納品をと注文を受けても、その確約ができないという大きな問題にぶつかりました。営業へ異動した最初の試練がまずこれでしたね。
2009年12月21日
大学同好会広報から営業へ
大テニススクールも終了し、入社1年も過ぎた頃、大幅な組織改正、人事異動がありました。入社を決めた動機のひとつでもあった、大学テニス同好会広報担当という専門の仕事がなくなり、私は営業へ異動となりました。最初はショックもありましたが、辞令ひとつで動くサラリーマンであり、またテニスにかかわれる仕事でもあるので、まずは新しい部署(営業)で頑張ることになりました。
2009年12月06日
大テニススクールを通して
トップトーナメントプロをメインコーチに、大学同好会トップをアシスタントコーチで行った大テニススクールですが、このイベントを通して、同好会メンバーの人生にも大きな影響を与えました。プロと知り合い、自らプロテニスの世界へ進んだ人、スポンサー企業と知り合い、その企業に就職した人、生徒さんとの遠距離(東北地方の生徒さん)交際が実り、結婚した人等です。かくいう私も、九州で行われたテニススクールの生徒と長距離交際から、結婚したのですが。GSSパンサーテニスクラブ創設でも、多くの人の人生の影響を与えましたが、この大テニススクールに、大学テニス同好会メンバーを参加させたことで、彼らの人生に大きな影響が出ましたね。約30年経ちましたが、今現在、彼らが幸せであることを祈ります。

2009年11月22日
世界NO1プレイヤーと同じコートに立つ
大テニススクールは、日本のトッププロをメインコーチに行われましたが、一度だけ、外国人プロを招いて開催されました。なんと当時の世界NO1、ウインブルドンチャンピョンです。毎回、日本のトッププロと同じコートに立て、アシスタントの大学同好会メンバーは感激していましたが(私は仕事からコート外でも接触する機会があり、彼らほどではないにしろ同様でしたが)、このときは感激を超えて、完全に舞い上がっていました(生徒さんには申し訳ないですが)。練習で、世界NO1プロのボールを受けましたが、超トップスピンの選手だったので、来たボールのバウンドが私の頭上を超えていきました。今まで、テレビ、雑誌でしか見たことがなかった世界NO1のレベルを目の当たりにし、一生の財産、貴重な経験となりました。

2009年11月07日
テニスショップまわり
トッププロをメインコーチ、同好会トップをアシスタントコーチで行われた大テニススクールは、関東以外の道府県で行なられましたが、私の目的は、スクールに参加して、自社製品をPRすることと、同好会トップとの関係を深めることでしたが、それだけでは物足りないとの指示で、途中からスクールの前日に目的地へ入り、地域のテニスショップをまわりました。行なったのは、挨拶、売行き動向の情報交換に加え、陳列の変更を行います。これは、テニスショップの一番いい場所(例えば、入り口近く)に、他社製品が並んでいたら、その場所に自社製品を並べて、他社製品は、あまり良くない場所へ移動させます。どのメーカーも行っているので、いたちごっこですが、会社指示でせっせと行いました。ただ、たまにテニスショップの方に、勝手に陳列を変えないようにと怒られることもありました。確かに、ショップの方も、思い、考えがあって陳列しているのですから、当たりまえですが。大テニススクールは、月2回ペースで、私はテニスショップまわりが加わったので、金曜日~日曜日の2泊3日の出張というパターンでした。
2009年11月03日
関東大学同好会クラブ対抗トーナメントを後援
テニスメーカーの同好会広報担当として、(学習院オープンは後援しましたが)、さらに大きい大会の後援をしたいと思っていましたが、個人戦は既に他メーカーの牙城があり、クラブ対抗トーナメント(男子では、S5、D4の団体戦)の交渉をし、何とか後援することになりました。ドロー表に広告を掲載、大会球を提供、提携テニスクラブを試合会場にとしました。この頃には、連盟幹部や上位選手とも関係が築け、自社製品を使用してくれる選手も増え、一応順風満帆でした。さらに、私の代には、実現出来なかった、GSSパンサーの連盟加盟を後輩達が実現してくれ、GSSパンサーのクラブ対応トーナメントの試合を見に行きましたが、結果は、残念でした。
2009年10月31日
大テニススクールのハプニング(飛行機止めちゃった)
大テニススクールは、月1~2回のペースで全国各地で行われ、その都度、日本のトップクラスのプロテニス選手(いわゆるトーナメントプロで、日本ランキング上位)に、アシスタントコーチとして、大学テニス同好会のトップクラスが加わりました。ある地方都市で行なわれたときですが、例によって飛行機で移動でした。同好会メンバーの航空券は私が全員分を持って、羽田空港集合でしたが、1人時間になっても来ません。今と違い、携帯電話がないので、家(1人でアパート暮らしの学生)へ電話しても出ません。搭乗手続き〆切時間が迫って、どうするか?家は出たので、来るだろうと思い、全員分の航空券はカウンターに出し、飛行機に乗りました。出発時間となっても来なかったので、諦めましたが、今度は飛行機が離陸しません。おかしいなと思ったら、搭乗手続きをした人数と搭乗した人数が合わないので、調査しているとのアナウンス。まずいと事情を話し、少々遅れて離陸しました。(30年以上前ですが、あらためて、申し訳ありませんでした。)遅れた同好会メンバー(学習院の同好会)は、到着した空港でやっと連絡がつき、遅れても、すぐ来るようにと指示、交通費は自腹と言いましたが、あとで補填しました。冷や汗ものでしたが、テニススクールも無事に進み、やれやれでした。

2009年10月29日
大テニススクールその2(続き)
熊本空港から会場のテニスコートに着くと早速、スクール開始です。プロ選手が2名、同好会のアシスタントコーチ5名、プラス私がアシスタントコーチに入りました。当時の日本のトッププロですから、生徒さんはもちろん感激ですが、私達アシスタントコーチも、トッププロと同じコートに立ちテニスをすることに感激するとともに、緊張しながら、教えていました。1日目の夜は、トッププロ、生徒さんを交えたパーティがあり、ビンゴや、ディスコ(古いですね)を行い、皆でヤングマン(西城秀樹の)を踊ったことを覚えています。パーティが終わった後は、同好会のメンバーを連れて2次会へ、初めて自分で交際費というものを使いました。2日目は、夕方までスクールで、終わるとすぐに空港へ。帰りは2度目の飛行機なので、それほど緊張せず、逆に、乗った飛行機(トライスター)の大きさに驚き、設備(オーディオ)に感激し、飛行機好きになってしまいました。夜遅く、無事羽田空港に着き、同好会メンバーからは、次回もぜひと頼まれるくらい良かったようで、心地よい気分で自宅へ戻りました。
2009年10月25日
大テニススクールその2
2回目は、私も参加、場所は熊本で、このときのトーナメントプロは、当時の日本1、2の現役選手他でした。1泊2日のスクールでしたが、熊本ですから、当然飛行機ですが、今まで飛行機に乗ったことがなく、飛行機に乗ることが一番の不安でした。今でも覚えていますが、DC9機で、こんな大きなものが(あとで乗った、ジャンボやトライスターに比べれば、格段に小さいのですが)、空を飛ぶことが信じられませんでした。プロ選手と席は隣でしたが、プロ選手は慣れたもので、離陸後すぐに寝てしまいましたが、私は、緊張で、ずっと外を見ていました。約1時間30分後、無事(あたり前ですが)熊本空港へ着陸、ほっとする間もなく、テニスコートへと向かいました。
2009年10月24日
大テニススクールの後援
入社半年位した頃、トーナメントプロをメインコーチにし、全国各地でテニススクールを行うというイベントの後援の話があり、私がアシスタントコーチを集め参加することになりました。私が同好会担当であったこと、また同好会とトーナメントプロとの接点がなかったこと等から、同好会上位選手の人に声をかけ、アシスタントコーチを行ってもらいました。シングルスの優勝者、準優勝者をはじめシード選手、ダブルスのシード選手等、関東学生同好会連盟のトップクラスの人が参加、学習院からは、オッターとサンのNO1に参加してもらいましたが、残念ながら当時のGSSパンサーはちょっと無理でした。1回目は確か秋田県で開催、私は、別の仕事で参加できませんでした。普段、テニススクールでアルバイトコーチをしている人がほとんどでしたが、さすがに、トーナメントプロと同じコートに立つのは、初めてで、皆喜んでいました。
2009年10月18日
学習院オープンの後援に
同好会担当として、当然、学習院オープンの後援を行いました。GSSパンサーをはじめ、オッター、サンの学習院の後輩達と打ち合わせ、ドロー表に自社の広告を掲載してもらい、そのかわり、大会で使用するボール(もちろん自社製ボール)を提供しました。また、後援会社の担当として、大会視察も仕事になりましたので、卒業後もGSSパンサーと関係は続いていきました。学習院オープンの結果は、第1回と同様まだ、GSSパンサーは弱く、オッター、サンが上位を占めていましたが(現役のサイトを見ると、今は当時と違いGSSパンサーが上位のようです)。ところで、以前、GSSパンサー現役時代に、第1回学習院オープンの後援でテニスショップ(店名は忘れた)にもお願いしたと記載しましたが、確か、目白の「ジャヌー」さんだったと思います。
2009年10月12日
インターハイ
テニスメーカーに入社し、最初のインターハイの季節がやってきましたが、テニスメーカーにとっては、ビッグイベントでした。まず、インターハイ(本選)が始まる前が、一仕事で、全国を数名の部員で担当し、都道府県予選の結果をいち早く調べます。そして、都道府県代表高(団体戦)や選手(個人戦)が決まると、その高校へ、自社製品の使用を売り込みに行きます。当然、他メーカーも行きますから、早さとサービスが求められます。団体戦のウエアは超格安で(無料提供もあったような)、個人戦の選手のラケットも同様です。なかには、売り込みの際、選手の練習相手をつとめることもありました。高校生とはいえ、インターハイ出場選手ですから、男子選手は、先輩社員がつとめ、私は女子選手相手でした。ある強豪高(インターハイ上位常連)でのこと、そのNO1女子選手とシングルスの1セットマッチをしましたが、まずミスをしない選手で、また観戦している他の女子選手の視線等(負けたらカッコ悪いなと)気にしつつ、結局タイブレークの末、負けてしまいました。終了後、逃げ出したい気持ちでしたが、それでは仕事にならないので、本人には「強いね、本選でも頑張ってね」と、監督教員には「いい選手ですね」と言って、その場をつくろいました。いや、今思っても、恥ずかしい想い出です。

2009年10月10日
テニスメーカーでのアフター5
社会人の一般的なアフター5は、飲み会で、テニスメーカーももちろん飲み会中心でしたが、やはりテニスメーカーだなと思ったのは、テニス+宴会でした。業務終了後、部員みんなで、ホテルのインドアテニスコートでテニスを行い、その後、宴会、そのままホテルへ泊まるといものでした。全日本経験者や県大会優勝者等の先輩社員とテニスをして(レベルの差を感じながら)、一杯と。GSSパンサー時代も、テニス後に、よく池袋のロサ会館(まだあるのかな)で、店員に価格交渉してみんなで飲み会をしましたが、さすが、社会人でかつテニスメーカーだなと思いました。もちろん、費用は自腹ですが、飲み会は先輩がかなりもってくれました。

2009年10月04日
テニスメーカーは多忙でした
メインは同好会広報担当でしたが、硬式テニスの広報部員が少なく、一般イベント(主催、協賛するテニススクール、テニス大会等)の運営や、インターハイ、インカレでの広報等も手分けをして担当していたので、結構多忙でした。特に、土日やGW、夏休み、年末年始にイベントが集中し、休めない日が多かったですね。平日に代休が取れるのですが、平日も仕事はあり、また、なんとなく平日に休みにくい雰囲気もあり、結構大変でした。でも、仕事は楽しく、最初のGWは、軽井沢でのイベント運営でした。軽井沢といえば、GSSパンサーの最初の夏合宿で行きました(もっとも北軽井沢でした)が、今回は中軽井沢でした。テニスメーカの車(バンタイプ)で、関越自動車道をいざ軽井沢へ。入社して知ったのですが、テニスをメインにしている民宿やペンションは、だいたいどこかのテニスメーカとタイアップしていて、このときも、自社と提携していた民宿を会場に、テニススクールの運営を行いました。入社直後のGWだったので、事前準備は、ほとんど先輩社員が行い、私は、アシスタントコーチや自社製品PR、提携民宿との顔つなぎの挨拶まわり等々を行いました。空いた時間に浅間山近くへ行ったりと、GWの休みはなかったですが、楽しかったですね。
2009年10月03日
関東大学同好会選手権
テニスメーカーの大学同好会広報担当として、正式名称は忘れましたが、同好会選手権のベスト8くらいからの試合を見ましたが、そのレベルの高さに驚きました。GSSパンサー時代は、学習院ではオッター、上智ではSLTA、立教ではオールホワイトが強かったのですが、同好会選手権の上位は、中大ローン、東大トマト、日大アップル、青学理工、PCB等で、インカレ1~2回戦レベルと思われました。実際、当時、シングルで毎日選手権の本選に出場したり、ダブルスで全日本選手権の本選に出場した人もいました。そうした中から、自社製品を使用してもらったり、自社イベント(スクール等)を手伝ってもらう選手を探すことにしました。
2009年09月28日
同好会の市場調査
テニスメーカー広報部での本格的な仕事の第一歩は、大学同好会の市場調査でした。体育会等では、大会毎に自社製品がどのくらい使用されているか(要はシェア)を調べるのです。同好会といっても、数が多いですし、創立者であるGSSパンサーや学習院の同好会(この当時はオッター、サンにも影響力があったので)だけでは、正しい数値は出ないので、関東大学同好会選手権で調べました。当時は、中大ローン、東大トマト等が強かったですが、残念ながら、自社製品のシェアは、体育会等に比べて低かったですね。しかし、ここから、次の仕事へと進んでいくことになりましたが。
2009年09月27日
テニスメーカーでの仕事(ガット張り)
広報部には、数十名の社員がいましたが、硬式テニス、軟式テニス、バドミントンと3つに分かれ、かつ選手社員がいましたので、実務を行う社員は、硬式テニスでは、数名でした。仕事の中には、契約プロ、社会人やインカレクラスの選手のガット張りがありました。GSSパンサー時代は、ガット張りを頼む立場でしたが、自分で張るのはもちろん初めてです。先輩社員に教わりながら、まずは自分のラケットで練習し、その後、主に学生のガット張りを行いました。当時は、ウッドのラケットに55~60Pで、ハイシープを張っていましたが、固めというのが難しく、張っているとどうしてもゆるんでしまい、何回も張替えをして渡していました。もちろん、プロ選手は、ナチュラルシープを厳密なポンド数で張らなくてはならず、ベテランの先輩社員が担当していました。たまに、GSSパンサーの後輩がきてくれて、後輩のラケットも練習がてら張っていました。(もちろん料金はもらいましたが、社員割引料金で。)
2009年09月21日
テニスメーカーでの配属先
新人研修(倉庫業務)が終了すると、いよいよ配属です。入社試験のとき、テニスメーカーが体育会重視だが、圧倒的にテニス人口は同好会の方が多く、このマーケットを逃すことはないと言ったこともあり、広報部勤務で、おもに同好会および一般ユーザーを担当することになりました。体育会担当は、インカレやインターハイクラスの選手に自社製品を使用してもらうことが以前からの主な業務でしたが、初の同好会担当ということで、さて何からやろうかと悩みました。しかし、GSSパンサーにまた関係して仕事ができるので、ある意味うれしい仕事で、早速、学習院オープンのスポンサーになるべく、後輩達を訪ねました。学習院連盟を立ち上げた経緯もあり、GSSパンサーだけでなく、オッターやサンの後輩達にも知り合いがいて、すんなり、決まりました。学習院オープンのドロー表に広告を掲載し、かわりに試合球を無料提供するというものでした。おまけに、後輩達との打ち合わせがてら、GSSパンサーの練習にも参加してしまいました(もちろん仕事として勤務時間中です!)。さらに、社員販売価格で、GSSパンサーおよびサンやオッターの主力メンバーに、自社製品を販売し、狭い範囲ですが、シェア拡大をしていきました。
2009年09月13日
2009年09月05日
社会人(テニスメーカ勤務)のスタート
GSSパンサーテニスクラブを卒業し、いよいよ社会人生活のスタートとなりました。入社したテニスメーカーでは、同期入社が約30名でしたが、入ってビックリ。業界ではあたり前だったのですが、半数以上は、選手枠で入社した人で、体育会で活躍した人、インカレクラスの人等で、私のような一般入社(同好会出身者や、趣味レベルの人)は少数でした。選手枠は、母校の体育会テニス部へ影響を与えることと、当時は、一流選手でも、プロ選手になる人が多いわけでなく、アマの社会人選手として活躍している人が多かったのです。全日本でも、プロでなく、アマが優勝することもある時代でした。社内では、テニマガやスマッシュで見た選手が、先輩社員にいて、驚きでした。