2009年07月27日
時間よ止まれ
GSSパンサーの初代キャプテンを引退した後も、輔仁会館(確かこういう字だったとおもいますが)の主と、テニス生活はかわりませんでした。まわりは就職活動をしていましたが、就職活動解禁は、当時就職協定で10月1日と決まっていたので、それをまともに信じてしまい、それまでは、テニス三昧でした。今から思うと信じられないですが、テニス一辺倒で、就職部にもあまりいかず、かつ変な正義感が強く、10月1日までは、就職活動をしませんでした。テニス三昧とはいいながら、20代前半の男子大学生ですから、もちろん女子には興味がありましたが、もてませんでしたね。そのとき、2年後輩で下宿をしたいたT君の部屋へ、酒とつまみをもって日参していたのを覚えています。朝まで、酒をのみながら、語らいましたが、当時、流れていたのが、矢沢永吉の「時間よ止まれ」でした。いまでも、たまに聞くと、思い出します。ちなみに、昨年、偶然再会し、懐かしい話をしました。
2009年07月25日
GSSパンサートーナメント
時期は覚えていないですが(30年以上前なので)、GSSパンサー内で全員参加のトーナメントを行いました。シードは、1が私で、2が私のダブルスのペアのM君、順調に勝ちあがり、なんとか私が第1回目のGSSパンサートーナメントで優勝しました。そういえば、GSSパンサートーナメントを含め、GSSパンサーとして行った全ての試合結果は、ノートに記録し、二代目キャプテンへ引き継いだけど、今はどうなっているのか?
2009年07月20日
GSSパンサー初の共通アイテム
確か3年後半にサークルとしてのアイテムを作ろうということで、1年女子が中心になり、企画制作しました。当時は、スタジャンか、トレーナーか、Tシャツかだけど、結局お揃いのトレーナーを作りました。どんなものだったかは定かでないのですが、確か色は薄いブルー、背中に、GAKUSYUINN,SOPIA,STPAUL(つづりはめちゃくちゃですが、要は、学習院、上智、立教)を円形に文字配置し、中心に、PANTHER TENNIS CLUBとあった気がします。もう、現物はなくなってしまいましたが、やはり当時は出来立てのクラブにすごい一体感が生まれたのを覚えています。

2009年07月19日
GSSパンサーの初代キャプテン引退
GSSパンサーを作り約1年半、初代キャプテンを務めました。歴史がなく(新しく作ったのであたり前ですが)、しかも当時としては珍しく、3大学(学習院、立教、上智)合同ということで、クラブ運営は、正直、試行錯誤で、しかしクラブ活動を軌道にのせるために、かなり強引に進めました。例えば、コート抽選(公営コートの予約には、朝早くから抽選にならばなければならず)に参加しない人は、いくらうまくても試合に出さない、幽霊部員は認めないので退部してもらう等々、今から思うと、当事者には気の毒でしたが、とにかくGSSパンサーを永続的に続くクラブにしていきたいという一心でした。しかし、4年生になり、いよいよ初代キャプテンを引退し、2代目に引き継がなくてはなりません。どうするか、悩みましたが、出来立てのクラブで選挙をするとゴタゴタすると思い、最後の強引さで、指名にしました。私が学習院でしたから、他大学で、テニスもうまく、くせがない等から、立教のT君を指名しました。ここで、発足から悪戦苦闘が続いたクラブ運営から身を引き、1部員として、テニスを楽しむことになりました。

2009年07月18日
若大将とGSSパンサー
日経新聞の私の履歴書に加山雄三氏が連載していたので、大事なことを思い出しました。GSSパンサー発足の経緯で、テニスのことは最初に記載しましたが、もうひとつ若大将があったのです。若大将シリーズの映画は、小学生の頃、怪獣映画と同時上映で見た記憶があるのですが、大学1年時にリバイバルブームがおきました。最初に見たのは、立教のタッカーホールでの上映で、そこから火がつき、映画館で毎週土曜日はオールナイト上映されました。シリーズは確か17本くらいあり、1度に5本上映でした。映画館は、大学生で満員、加山雄三(映画では、雄一)が歌うと喝采、スポーツで逆転して喝采、星由里子(映画では、澄子)とうまくいくと喝采と、深夜の映画館が熱狂してました。加山雄三は、事業の失敗で多額の負債をかかえていましたが、たぶんこの当時の大学生がおこした、リバイバルブームで、復活したのではと思います。その若大将シリーズを見て、単純に、大学生活は、スポーツと女の子という発想から、何か作り上げたいという思いが強く、そこに、テニス歴が加わり、GSSパンサー発足への原動力になりました。
2009年07月17日
GSSパンサー初の春合宿
学習院連盟発足、学習院オープン開催準備と並行して、GSSパンサー初の春合宿の準備も始めました。夏合宿の反省も踏まえ早めに準備、まずは、宿舎で、今はメッカですが、千葉の白子にしました。白子△△ホテルに予約し、いざ出発。着いてみると、ホテルの玄関がなんと工事中。GSSパンサーが初のお客だったらしく、完成してなかったのです。でも、ホテルの中とコートは完成していたので、合宿としては、問題ありませんでしたが。
夏と違い、かなり本格的なテニス合宿で、朝食前に、ランニング(パンサーファイトと声を出しながら)をするという(あたりまえかな?)熱の入れようでした。海にも近く、30年以上前の当時としては、いい場所、いい合宿でした。私は女子のコーチ役でしたし。
夏と違い、かなり本格的なテニス合宿で、朝食前に、ランニング(パンサーファイトと声を出しながら)をするという(あたりまえかな?)熱の入れようでした。海にも近く、30年以上前の当時としては、いい場所、いい合宿でした。私は女子のコーチ役でしたし。
2009年07月11日
学習院同好会連盟と学習院オープン大会発足
大学3年も後半に入り、GSSパンサーの活動も紆余曲折がありましたが、まずは順調に進みました。しかし、私としては、卒業までに、ぜひやっておきたいことが2つありました。1つは、関東学生同好会連盟への加盟で、もう1つが、当時、上智と立教には、同好会連盟があり、学内オープン大会が開催されていましたが、学習院にはなかったので、ぜひとも在学中に、学習院同好会連盟発足と学習院オープンの開催を行なおうしました。残念ながら、関東連盟加盟は、時間がかかり、卒業後に後輩がやってくれましたが、学習院連盟は、3年後半にオッター、サンに働きかけ、発足、そして4年時に、ついに学習院オープン大会が開催できました。会場は、当時オッターが練習に使用していた民間のテニスクラブのコートを借り、スポンサー(目白にあったテニスショップで、店名は忘れました、頼んでおいてすみません。)もみつかり、無事開催。実力がわからないので(本当は当時、オッター、サン、そしてGSSパンサーの順でしたが)、同数のシードを与え、もちろん私も入りましたが、GSSパンサーは、シード全滅でした。今のGSSパンサーは、現役のホームページを見ると、関東連盟でも、学習院、上智でも、良い成績ですが、当時は、正直、出来たての弱小クラブでしたので、仕方がありませんでしたが。なお、事情はわかりませんが、立教は今はGSSパンサーに入ってないとのことで、残念です。まあ、成績はどうであれ、学習院同好会連盟と学習院オープン大会を発足させ、現在も続いているので、うれしい限りです。
2009年07月08日
GSSパンサー以外のテニス活動
GSSパンサーのテニスに並行して、テニスコーチをしてみたいという気持ちになり、都内のあるインドアテニススクールのアルバイトコーチ募集に応募しました。面接は通過、次の実技で、ストローク、ボレーまでは良かったのですが、サーブとスマッシュで、あきらかにヘッドコーチ(か支配人)の顔色が変わったのを覚えています。結果は、不合格。男ではめずらしく、私は野球をやったことがなく、テニス前にやったといえるスポーツは卓球くらいでした。その関係か、肩をまわすという動作がぎこちなく(投球動作がうまくできない)、ゲーム中は、ゆるいサーブと、レシーブ命で、スマッシュはハイボレーでと、なんとかごまかしていたのですが、コーチとしてのデモンストレーションでは、化けの皮がはがれました。
しかし、めげずに練習し、今度は、某テニス会社主催の伊豆大島合宿のアルバイトコーチに挑戦、無事合格、初のアルバイトテニスコーチを務めることとなりました。伊豆大島は近いと思いましたが、なんと、夜10時頃竹芝桟橋を船で出発するも、東京湾からなかなか出ず、ゆっくりと翌朝、伊豆大島に到着しましたが、すっかり船酔いになってしまいました。コーチ業は、無我夢中で、何をしたかほとんど覚えていませんでしたが、30年以上前で、交通費、宿泊、食事は別(いわゆる現物支給)で、さらに時給1000円とかなりいいバイトだった覚えが有ります。
しかし、めげずに練習し、今度は、某テニス会社主催の伊豆大島合宿のアルバイトコーチに挑戦、無事合格、初のアルバイトテニスコーチを務めることとなりました。伊豆大島は近いと思いましたが、なんと、夜10時頃竹芝桟橋を船で出発するも、東京湾からなかなか出ず、ゆっくりと翌朝、伊豆大島に到着しましたが、すっかり船酔いになってしまいました。コーチ業は、無我夢中で、何をしたかほとんど覚えていませんでしたが、30年以上前で、交通費、宿泊、食事は別(いわゆる現物支給)で、さらに時給1000円とかなりいいバイトだった覚えが有ります。
2009年07月06日
GSSパンサーでのテニス活動1
体制も整い、テニスも本格的になりました。GSSパンサーとしての対外試合は、学習院のサン、青学の??(サークル名は忘れました)等と行ないましたが、トータルの勝敗では全て負けました。ほとんどの部員が大学からテニスをはじめ、まだ2年目のクラブですから、しょうがないのですが。個人的には、身の程しらずに、大沢杯(今はないですが、以前、確かヘッドを扱っていた会社が主催した、社会人、体育会、同好会の上位層と結構レベルの高い大会)等々に出場、しかし全敗しました。最初の4ゲームくらいは、2-2でいくのですが、その後一方的に取られるというパターン、力の差を感じて、それをバネにまた、テニスという毎日でした。
2009年07月05日
GSSパンサー初夏合宿後の活動について
秋になると、活動も順調になってきましたが、GSSパンサーは、出来たての同好会で、かつ3大学(学習院、立教、上智)合同のため、当然部室がなく、連絡も不便でした。今のように携帯もPCもないので、会って話すしか連絡手段がないので。そこで、学習院には、ホジン会館(今もあるのかな?)という学生会館があり、そこの談話室に、午前中はほぼ私がいるという状況になり、授業の合間にくるメンバーと話をするという毎日でした。いつしか談話室の主と呼ばれ、モーニングサービスを注文すると、たまにサンドイッチが多かったこともありました。いや、今思うと楽しい毎日でした。
2009年07月02日
GSSパンサー初夏合宿
準備は遅れましたが、いよいよ初の夏合宿。まず、場所。テニス、サークル、夏となれば、軽井沢でしょうということで、軽井沢になったのですが、遅れたため、旧軽や中軽は当然無理で、北軽井沢になりました。移動はバスをチャータし、ラジカセ(30年以上前は、CDもウオークマンもなし)で音楽を聞きながらいざ軽井沢へ。曲名は覚えていませんが、下級生が、「ファッション雑誌もかなわない素敵な君だからーーー」という歌詞の歌をかけていて、今でも耳に残っています。現地に到着すると、軽井沢でも浅間山の近くで、部屋はバンガローに分散という形でした。しかしまあコート(クレー)はあるので、昼間はとにかくテニス、テニス。夜は、コンビニも何も、真っ暗で、周りは何もありません。飲み物は、自動販売機で買い、つまみは、なんと川で釣りをして、魚(確か鮎)を、木の枝で刺し、焼いて食べました。今から思うと信じられない、かつ楽しい夜でした。テニスでは、最後に試合をしました。私は、初代キャプテンとして、負けられないが、強い相手でなければと(私が組み合わせを決めれれたので)、2年生で、パンサーでサーブが一番早いT君を選びました。結果は覚えてないのですが、レシーブでベースラインから1メートル下がっていたことを覚えています。他では、1年生で両雄激突をさせました。1人は、コナーズばりの両手バックハンドを得意とするT君、もう1人は帰国子女(男子)で、海外でテニスをしていた、きれいなテニスをするI君。これも結果は覚えていませんが。
いろいろありましたが、無事、GSSパンサー初の夏合宿が終わりました。
いろいろありましたが、無事、GSSパンサー初の夏合宿が終わりました。